2025年 1月

非核の政府を求める石川の会は、会報「非核・いしかわ」第318号(2025年1月20日付)を発行しました。サイドメニューの会報「非核・いしかわ」、「絵手紙」も最新情報を追加しました。
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【年頭所感】

戦後・被爆80年にあたって

日本国憲法にノーベル平和賞を

代表世話人  井上英夫 

 

     ノーベル平和賞受賞後、被団協代表団らが記念撮影(12月10日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明けましておめでとうございます。 元旦、晴れましたね。今年こそ皆様にとって良い年になりますようにお祈りします。

 昨年は、多難な年でした。元旦の能登半島地震そして9月21日、豪雨、洪水が襲いました。国際的にもロシア侵略、イスラエルのガザ侵略そしてジェノサイドは続いています。ヨーロッパでの極右勢力の進出、アメリカではトランプ再登場です

 しかし、暮れには明るいニュースがありました。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞です。田中熙巳代表委員の受賞講演はじめ被爆された皆さんの訴えは、授賞式会場・ノルウェーのみならず世界を揺るがせました。石川からも本会会員で四歳の時広島で被爆された西本多美子さん、保険医協会の大田健志さんが若者代表で参加されました。

被団協―人権のためのたたかい

 田中さんは受賞講演において、被団協は、二つの基本要求を掲げて運動してきたと言います。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、「原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない」、という要求です。もう一つは、「核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない」ということです。そして、田中さんは最後に、「人類が核兵器で自滅することのないように。 核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と訴えました。

 日本被団協の運動、そして私達非核の政府を求める会等の核廃絶・平和運動は、憲法九七条の認める「人類の多年にわたる自由獲得の努力(struggle)」、すなわち、人権のためのたたかいに他なりません。そして、たたかいの成果が、未だ不十分ですが、国内的には被爆者援護法、そして国際的には、核のタブー、核不拡散条約、核兵器禁止条約に結実し、平和賞受賞となったのです。

 何より、憲法前文が人権の基底的権利として保障している平和的生存権確立のためのたたかいです。

平和的生存権―日本国憲法に平和賞を

 憲法前文は、日本、世界が進むべき道を人類の普遍的原理として示しています。全文を掲げますので、とくに太字部分に注目しお読みください。

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日本国憲法・前文

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

(昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日施行)

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 原爆はじめ被害者そして加害者として残虐な結果を招いた第二次大戦への反省を踏まえ、国民主権、基本的人権の保障、平和主義を3本柱とすること、、とりわけ「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」、すなわち平和的生存権を有することを確認しています。恐怖(戦争やテロ・暴力)からの自由を求め、軍備と戦争を否定した憲法9条と、欠乏(飢餓や貧困)からの自由すなわち「健康で文化的な生活」の保障を定めた25条は、その具体化で両者一体なのです。

 日本被団協へのノーベル平和賞授賞理由は、「ヒバクシャ」として知られる広島と長崎の原子力爆弾の生存者たちによる草の根運動が、「核兵器のない世界の実現に尽力し、核兵器が二度と使われてはならないことを証言を通じて示してきたこと」です。そして、ノーベル賞委員会は、「一つの心強い事実を確認したい」と続けます。それは、「80年近くの間、戦争で核兵器は使用されてこなかった」、「日本被団協やその他の被爆者の代表者らによる並外れた努力は、核のタブーの確立に大きく貢献した」ということです。だとすれば、平和的生存権を掲げる日本国憲法そして被団協をはじめとする日本の平和運動もまた、ノーベル平和賞に値すると思います。

 ノーベルは、平和賞を「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すると遺言しました。

 この点からすると、日本国憲法への授与は難しいかも知れませんが、平和、核兵器・戦争の抑止力としてその価値は十分にあると思います。

核抑止論と非暴力主義

 現在、世界には直ちに発射できる核弾頭が4000発以上あります。核兵器削減、廃絶は困難な道です。この現実の根底にあるのが「軍備・核抑止論」です。そして「目には目を」の報復です。核抑止論そして軍備抑止論は手ごわい存在です。日本も軍事大国への道を進み、軍事費2倍化でアメリカ、中国に続く世界第3位になろうとしています。

 突き詰めると、核抑止論に対抗するには、一人一人の「非暴力主義」しかないと思います。南アフリカで最初の黒人大統領となったネルソン・マンデラは、非暴力運動(貫徹はできませんでしたが)によりアパルトヘイトを廃止し、白人への報復を否定し、「虹の国」づくりを呼びかけました。非暴力そして報復の否定こそ、核抑止論の克服・核廃絶への近道だと思います。

国家の役割

 世界の人々の日本の平和運動への期待は大きなものがあります。私達の平和的生存権確立のためのたたかいはこれに応えられているでしょうか。アメリカの核の傘に入り、核兵器禁止条約の批准はおろか参加すらできない、日本国の情けなさです。あらためて国とは何かが問われています。

 憲法前文は、国民が「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」したと述べています。戦争は、国によって引き起こされること、そして、それを阻止するのは、私たち国民であること、を厳しく問うています。

 最後に、災害は恐怖であり欠乏です。能登の人々は、地震そして豪雨に襲われ、「神も仏もないものか」、もう住み続けられないのでは、と絶望の淵に立たされています。戦前、江戸時代ならともかく、現代・新憲法下では、神や仏に代わって、人々・国民の生活、安心を守る、すなわち人権として「住み続ける権利」を保障するのは国の義務であり責任に他ならない。そのために国をつくり、憲法を制定したのではないでしょうか。

 国外の脅威に国民の目を向けさせ、軍備増強、憲法九条改悪をはかるのではなく、国内の災害・脅威にこそ財政を総動員する。それこそが、国の役割であり、存在意義だと思います。

(会報「非核・いしかわ」2025年1月20日号)

【年頭所感】

岩佐幹三さんと田中熙巳さんのこと

代表世話人 五十嵐正博

 2024年10月11日午後6時、「ノーべル委員会」は「日本被団協」をノーベル平和賞に選出したと発表、広島市役所で待機していた箕牧智之代表委員が歓喜に震えながら頬をつねるシーンがすべてを語っていました。そのシーンに喜びを共有しつつ、岩佐幹三さんがご存命であれば、と岩佐さんに思いを寄せた方も大勢いらしたことでしょう。本会にとっても待ちに待った吉報でした。

 

2016年2月北陸原水協学校in金沢で講演する田中熙巳さん

 12月10日、ノーベル賞授賞式での田中煕巳さんの演説、「人類が核で自滅することがないように」、と静かに訴えかけるスピーチは、聞くものの心を揺さぶり、全国に田中さんの名を知らしめました。岩佐さんと田中さんには長く深い絆があったことも記憶に留めておかなければなりません。

岩佐幹三さんと非核の政府を求める石川の会

 私が金沢大学法学部に職をえたのは1984年4月35歳、岩佐さんはちょうど20歳上の55歳、40年前のこと、岩佐さんが定年退官される1994年3月まで10年余を同僚として過ごしました。皆でよく議論し、酒を酌み交わし、勢いで岩佐家になだれ込んだことも。そんな親しい間柄でありながら、岩佐さんが「被爆者」であることは存知あげていても、「被爆体験」をじっくり伺った記憶はありません。岩佐さんは、1960年「石川県原爆被災者友の会」を立ち上げ、初代会長を務め、1994年に金沢を去るまで続けられていたにもかかわらずです。

 1986年5月、全国組織「非核の政府を求める会」が発足、「石川の会」は88年8月に発足しました。岩佐さんは、「結成よびかけ人」のお一人であり、「会」の世話人に名を連ねました。私は、本会の創設からかかわってきましたが、本会発足直後の88年12月、岩佐さんが金沢市立十一屋小学校の金森学級で被爆体験を語り、児童が紙芝居にしたことなどの貴重な記録を長い間、埋もれさせてしまいました。(本誌266号、2020年9月20日参照)

 岩佐さんは、2008年、NHK広島が募集した「ヒバクシャからの手紙」に応募しました。『母と妹(好子)へ送るコトバ』、壮絶な被爆体験が語られ、「でも僕たちが体験したことよりも、原爆はもっともっとひどくつらい体験を被爆者に与え続けているんだ。そのような被害を、僕たちの子孫、そして日本国民、さらに人類の上に、再び繰り返させたくない。だから『ふたたび被爆者をつくるな』と核兵器に廃絶を訴え、国が、その『証』として戦争被害、原爆被害に対して将来にわたって補償することを求めて頑張っているんだよ。」岩佐さんの後世への「遺言」です。女優の斉藤とも子さんに、朗読をお願いしたそうです。

 

2011年6月核戦争を防止する石川医師の会総会で記念講演する岩佐幹三さん

 岩佐さんは、1994年千葉県船橋市に移られ、埼玉県新座市にある十文字学園で、「十文字学園女子大学」開学に向けた作業に携わり、開学後は「社会情報学部」で「政治学」「平和学」などを担当されました。2000年「被団協」事務局次長に、2011年代表委員に、2017年代表委員を退任(顧問になる)、田中さんが後任となったのでした。3人からなる代表委員は被団協のトップで、広島、長崎の両被爆地と関東エリアから選出されます。

岩佐幹三さんと田中煕巳さん

 田中さんは、「十文字学園」教授だった経歴をお持ちです(「コンピュータ概説」「情報処理」などの科目を担当)。岩佐さんと田中さんとの深い絆がここに。私は1997・98年、岩佐さんの依頼で十文字学園社会情報学部で「国際協力論」の集中講義をしたことがありました。私の実家が群馬県太田市にあり、帰省のついでにというお心遣いでした。もっとも、キャンパス内で田中さんに出会うことはありませんでした。

 田中さんによれば「初めての出会いは、1974年頃。日本被団協の中央行動に岩佐さんが金沢から私は仙台から参加していた」ときでした。「岩佐さんは金沢大学で定年をむかえたあと首都圏の私大(注:十文字学園)で新たな大学設置の仕事に就き、私にも首都圏に来ることを盛んに勧めた。同じ学園に私を誘ってくださり、1996年から同じ学園でお世話になった。これがきっかけで私は2000年から日本被団協の事務局長を務めることになり3年間の大学との掛け持ちも含め17年間の長きにわたった。」「岩佐さんが一番輝いていたのは1985年、日本被団協の独自調査の調査委員長の時でしたね」(田中煕巳「岩佐幹三さんの思い出」、岩佐幹三さん追悼する会編『岩佐幹三さん追悼集』(2021年9月)。岩佐さんが一番輝いていた1985五年、私は岩佐さんの身近にいたにもかかわらず、気が付きませんでした。「五十嵐君、相変わらず鈍感だな!」天国から岩佐さんの叱責が聞こえてきます。

 1月8日、被団協代表委員3名など8名は首相官邸で石破総理と面会しました。核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加を求める被団協の求めに、石破総理は不誠実な対応に終始しました。「非核の政府」を作らなければならないのです。

※本稿執筆にあたり、十文字学園大学事務局に岩佐さんと田中さんの担当科目を問い合わせたところ、丁寧なお返事をいただいたことを記しておきます。

(会報「非核・いしかわ」2025年1月20日号)

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