2019年 3月

 非核の政府を求める石川の会は、会報「非核・いしかわ」第248号(2019年3月20日付)を発行しました。サイドメニューの会報「非核・いしかわ」、「絵手紙」も最新情報を追加しました。

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沖縄・辺野古基地 2・24県民投票を終えて

「本土」への大いなる異議申し立て

                代表世話人 五十嵐正博

 

奪われた沖縄(ふるさと)を取り戻すため、少年少女は立ち上がる

 直木賞受賞作、真藤順丈『宝島』は、1952年、サンフランシスコ条約が発効し、“アメリカ世(ゆ)”になった沖縄のキャンプ・カデナでの出来事から物語が始まります。当時、「晴れて占領下を外れた日本(ヤマトゥ)では主権回復を祝っていたけど、わざわざ条文の但し書きつきでのけものにされたこの島では、アメリカがずっと使えるように、“基地の島”の工事に明け暮れていた」のでした。その後、1970年の「コザ暴動」などを経て、1972年の「本土返還」に至るまで、「奪われた沖縄(ふるさと)を取り戻すため、少年少女は立ち上がる」物語です(同書、帯)。

 「沖縄を返せ」が初めて歌われたのは1956年、この年、瀬長亀次郎さんは出獄し、やがて沖縄市長に当選します。『宝島』には沖縄の節目節目に亀さんが登場します。

「辺野古」県民投票の会の若者たち

 『宝島』で少年少女が勇ましく立ち上がる姿は、「沖縄を取り戻すため」に、元山仁士郎さんの呼びかけで「『辺野古』県民投票の会」に集った若者たち、島のいたるところでプラカードを掲げ、署名活動をした若者たち、18歳以下の意見も聞こうと「シール投票」を行った若者たちなどの姿と重なります。

 インターネットで、ホワイトハウスに辺野古新基地建設中止を求める活動を始めた、ハワイ在住の「県民四世」ロブ・カジワラさんも。ロブさんの発案は、沖縄の基地問題を世界に知らしめたという意味でも画期的でした。そういえば、1969年、沖縄のある高校では、「生徒150人が佐藤訪米阻止、学園民主化を叫んで校庭にすわりこみ、ハンストにはいった」歴史があります(中野好夫・新崎盛暉『沖縄・70年前後』岩波新書)。

 「琉球処分」から140年、翁長雄志さんが語っていました。「私たちは確かに厳しい時代を生きているけれど、それでもなぜこれほど強い県民になったかというと、長い歴史の中で虐げられて、木の葉のように風に舞いながらも、自分のアイデンティティーを確かめながら生きてきたからだと思います。」(『戦う民意』) 

沖縄の人たちは「なぜ明るいのか」

 沖縄の人たちの「明るさ」にひかれ、那覇のフリースクールで3年間の高校生活を送った珠洲市出身の少女は、県民大会に参加し、オスプレイ墜落地の住民の話を聞き、高江、辺野古を訪ねたりもしました。そして、沖縄に対する本土の無関心と潜在的差別意識を身に染みて実感することになります。「『なぜ明るいか』、それは明るくないとやっていけないくらい暗いものを知っているから」と思い至るのです。彼女の豊かで、しなやかで、しかも鋭い感性が導き出した言葉でした(「菜の花の沖縄日記」は2015年~2018年『北陸中日新聞』に連載)。

 彼女が通ったフリースクール「珊瑚舎スコーレ」の1年後輩の少女、彼女が先の「シール投票」の発案者ですが、そのきっかけを次のように語っています。県民投票を2か月後にひかえたある日のこと、友人のお母さんに呼び止められました。県民投票に5つの市の人は参加できない、アメリカの先住民は、何か大切なものを決めるとき、子や孫のことのことでなく、7代先のことまで考えて物事を決める、そういう考えが不参加を決めた人たちにあるのか、と。彼女はこの言葉がずっと胸から離れず、投票当日まであと1ヶ月と迫ったときに、「シール投票」を立ち上げます。

かつての少年少女の闘う姿を追った『宝島』

 1967年の「教公二法案阻止闘争」、69年の「毒ガス漏れ事件」、70年末の「コザ暴動」、そして「本土復帰運動」などの中で、30代後半になったかつての少年少女。『宝島』は、彼ら、彼女らがそこでもがき、闘う姿を追います。その一人は、こう言い放ちます。「条件は二つある その1、コザか那覇に日本(ヤマトゥ)の首都を還すこと、その2、瀬長亀次郎や屋良主席あたりの島の政治家を、佐藤栄作を更迭したあとの内閣総理大臣に任命すること、このふたつが通らなかったら返還は白紙よ。」当時は、「沖縄の闘いは、『県民の総意』を日本政府に突きつけ、対米交渉によって『復帰』を実現するという形の復帰運動から、日本政府への一切の期待と幻想を断ち切った自立的闘争へと転化しつつあった」時代でした。(前掲岩波新書)

県民投票条例の署名運動が翁長さんを後押し

 2018年7月27日、翁長雄志前知事は辺野古新基地建設の承認撤回を表明しました。承認撤回を必ず行うと明言してから1年4か月、亡くなる2週間前のことでした。その間、承認に踏み切らない知事に対する不満、批判が「オール沖縄」を分裂に導きかねないとの懸念が示されたりもしました。

 翁長さんは、記者会見の冒頭、辺野古米軍基地建設のための埋め立ての賛否を問う県民投票条例の署名活動が7月23日に終了したことに言及し、「署名活動に取り組まれた皆様のご努力に心から敬意を表するとともに、政府におきましてもこれほど多く県民が署名を行った重みについてしっかりと向き合ってもらいたいと思います。」と述べました。「県民投票条例の署名活動」が翁長さんの決断を後押ししたことを認め、新基地問題は沖縄だけの問題でなく、日本全体の問題であると訴えたのです。

 沖縄県民は、直近の2度の知事選、今回の「県民投票」で、圧倒的な「辺野古新基地NO!」の民意を示しました。安倍首相は、県民投票前から、基地建設の継続強行を決めていました。確実にいえることがあります。安倍独裁政権にもやがて終わりがある、辺野古新基地建設は完成しない、しかし、安倍政権が続く限り、この国の憲法が蹂躙され、民主主義が破壊され、対米従属は「深化」し続ける、そして、埋め立てられた大浦湾は元に戻せない。いつもそうです、「そして誰も責任を負わない」。

問われているのは「本土の本気度」

 私は、今回の県民投票を、本土の沖縄に対する無関心と潜在的差別意識への「大いなる異議申し立て」だったと理解します。ある記者が、元山さんに「次は何をしますか?」と問いました。その問いは、元山さんに対してではなく、質問した記者自身に、そして本土の私たちに向けられるべきものでした。問われるべきは「本土の本気度」であり、「奪われた沖縄を取り戻すために、本土が何をするかです。」私たちがなすべきことは、一日も早く安倍政権を退陣させて、この国に憲法と民主主義を取り戻すことです。沖縄を沖縄の人たちに返すためにも。

(会報「非核・いしかわ」第248号/2019年3月20日付に掲載)

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