2017年 2月

近日刊行 非核の政府を求める会パンフレット B5判 120頁 頒価1,000円

 

< 2016.12.3 非核の政府を求める会結成30周年記念シンポジウム >

非核自治体運動の多彩な活動と前進の展望

非核の政府を求める石川の会事務局長

神田 順一

 ことし7月に県内全市町が平和首長会議に加盟しました。2008〜11年は5自治体だけでした。その後、毎年着実に増えた、この5年間の取り組みについて報告します。

 2012年4月、私たちは「平和事業に関する自治体アンケート」に踏み切りました。その自治体アンケートの集約結果と共に、会報を全自治体に送りました。会報は5年近く毎月送っています。同年7月から非核平和行政を取材し、これまでに9自治体と接点ができました。これを会報に載せ、ホームページで公開してアピールしました。そういう取り組みと、平和首長会議事務局の働きかけが相まって、全市町100%加盟が実現できました。

(平和行政を担う自治体職員との接点を広げる視点)

 平和行政を担う自治体、とくに幹部職員と接点を広げる視点を大事にしました。きっかけは、非核埼玉の会の自治体アンケートで「今年度の平和事業計画」がびっしり書かれていました。石川の会でも実施したいと、埼玉の会から自治体アンケートのデータを送ってもらい、2012年から始めました。

 会報「非核・いしかわ」は5人の編集体制です。評論で結実したのがコラム集『花鳥風月集』で、読者参加の『会員エッセー集』は会員88人の投稿をまとめました。ことし4月には『非核・平和の自治体づくり』も作成。手づくりで300〜500部作って会員や自治体に配布しています。

(アンケート項目を工夫して調査依頼)

 どういうアンケートをとったのか。1年目は、基本情報を入手し、平和首長会議や非核宣言自治体協議会の加盟の有無なども整理しています。3年目は、総務課のEメールアドレスを聞ける間柄になりました。4年目は、平和事業を教育委員会が行っている情報を入手しました。

 2011年に平和首長会議に加盟した七尾市は、加盟したからには何か事業をやれないかという市長の発案で、総務課として「平和写真パネル展」を具体化し毎年パネル展を続けています。白山市は被爆70年を記念して平和首長会議に加盟し、長崎市から被爆資料を借りて「長崎 戦争・原爆被災展」を開催しました。輪島市では、被爆医師・清水正明先生が描き、市に寄贈された被爆絵画を市教育委員会が引き継ぎ、毎年8月に被爆絵画展を開催しています。野々市市の「原爆と人間展」には平和都市宣言の決議、中学生の「平和の旅」の実施内容などが掲示されています。「平和の旅」の参加報告は「原爆と人間」展と同じ市役所のフロアに掲示しています。金沢市は図書館が3館あり「原爆と人間」展を毎年巡回して展示しています。

(国民平和大行進石川県実行委員会との連携)

 私は2013年3月末に定年退職し、6月に国民平和大行進の県内「通し行進者」にチャレンジしました。よかったのは、事前に5月に全自治体を訪問し、総務課長クラスに平和行政の推進などを丁寧に要請できたことです。以来私は、県内通し行進・自治体訪問を4年続けています。そのとき自治体アンケートを総務課長に直接手渡すので、必ず回答をもらえます。

 志賀町は2015年6月、非核平和の宣言・標柱を、私たちが志賀町役場に向けて平和行進する前の週に改修して迎えてくれました。中能登町も「非核・平和宣言の町」という標柱をつくりました。そのときハナミズキの記念植樹があり、その鍬入れ式を町長、議長と行進団団長の3人で行うという好待遇でした。こういう先進的な自治体も生まれてきました。

(平和首長会議事務局と連携した取り組み〉

 私は、これまでに3度、平和首長会議事務局を訪問しました。初めて訪問したとき、非核石川の会が自治体に平和首長会議への加盟を呼びかけていることを伝えたら、担当課から感謝されました。2回目は、担当課長から、その年の1月に国際平和推進部長と主事が加賀、小松、能美の各市を訪問し、平和首長会議に加盟する確約を得たと聞き、びっくりさせられました。

(今後の課題と展望)

 平和首長会議100% 加盟は目標ではなく新たなスタート地点です。原爆パネル展も100% 実現をめざしたい。平和首長会議の県内の加盟自治体会議を、平和首長会議事務局の協力も得て実現したいと考えています。それから、「ヒバクシャ国際署名」を自治体の中でどう位置づけるのか、いろんな取り組みを通じて粘り強くやっていきたいと思います。

◎本稿は「非核の政府を求める会ニュース」2017年2月15日号に掲載された非核石川の会の活動報告(要旨)です。近日刊行の「非核自治体運動シンポジウム記録集」にはパネリストを務めた神田順一事務局長の発言全文が収録されています。記録集を購入希望の方はHPのお問い合わせメールフォームにてご連絡ください。

辺野古にて―安保条約・日米同盟は誰を守っているか 

代表世話人 井上英夫

 年の改まった1月10日、辺野古を訪問しました。琉球大学法文学部での集中講義の合間でした。

 那覇を発ち、名護バスターミナルまで約1時間半、中央山間部の沖縄自動車道を走る高速バスの旅です。午前中同じ名護市の西海岸にあるハンセン病療養所愛楽園に行き、沖縄の戦争と差別のもう一つの歴史を学び、午後、タクシーで辺野古へ回りました。

写真① キャンプシュワブ第2ゲート前のテント村

 キャンプシュワブ第二ゲート前のテント村には40名ほどの人々が集まり、挨拶と沖縄民謡、三線も披露されました(写真①)。私が帰る4時前には、全国からの100名ほどの参加者に膨らんでいました。

写真② 第2ゲート前の黄色線手前をデモ行進

 その後、「米軍帰れ」」基地つくるな」のシュプレヒコールとともにゲート前歩道をデモ行進しました。これに参加したわけですが、非暴力、平和的デモであることが強調されました。同時に、写真②の黄色線を超えると、基地侵入ということで逮捕されるという、注意がありました。基地内からは、デモへの警告放送が続きます。

写真③ 米軍関係車両の基地への出入りを阻止するデモ隊

 デモ隊は、隊列を組んで基地への米軍関係の車両の出入りを阻止し、「基地反対」「アメリカに帰れ」とドライバーに呼びかけます。民間車両に対しては、妨害しません。米軍関係車両は、Yナンバーですので、すぐわかります。(写真③)

写真④ デモ隊を排除するのは日本の機動隊

 ここで、私にとって思いもかけない光景が出現したのです。デモ隊排除のために基地内から行進してきたのは、日本の機動隊でした(写真④、⑤)。米軍、MPか何かが出てくるのかと思うと日本人だったのです。沖縄県か、他の都道府県からの隊か、聞きもらしましたが、いずれにしても若い日本の人達です。デモ隊を排除して、車両が通ると、基地内に引き上げ、ストップするとまた、基地内から行進して来るのです。

写真⑤ 非暴力、平和的デモを強制的に排除する機動隊

 沖縄そして本土からの基地反対者に同じ日本人同胞が、米軍の手先とさせられ、対立させられています。

 尖閣諸島には日米安保条約5条(集団的自衛権行使の根拠とされている)が適用され、アメリカによって中国から日本の領土が守られる、と安倍政権は有頂天になっていますが、安保条約で血と汗を流すのは日本、守られるのはアメリカでしょう。アメリカ・トランプのための自衛隊、機動隊そして日本政府であるという安保条約・日米同盟の真の姿が辺野古で露呈されていました。

 今回で辺野古は4回目です。一昨年は、名護から路線バスで約30分の辺野古に行きました。辺野古にいられたのは30分程度でしたが、路線バスだからこその貴重な体験をしました。

 一つは、フランスのノルマンディーから来たというご夫婦で、沖縄ちゅら海水族館に向かうということでした。私が、基地反対で辺野古に行くというと、それは素晴らしい、良いことだ、頑張れと、賛同してくれたのです。お二人の方から寄ってこられ、話しかけられたのです。それは、フランス語ができそうだからとのことでした。ドイツでも、ノルウェーでも、現地の人々に間違えられるのは、風貌のためだと言われています。しかし、私は考え方、思想―例えば平和について―が日本人的ではなく人類にとって普遍的なものを目指しているからではないかと勝手に思っています。それは、まさに日本国憲法の姿だと思います。思わぬ、国際連帯ができたわけです。

 今年は憲法施行70周年です。1947年埼玉県秩父市に生まれた私は憲法と一緒に生きてきました。

 もう一つは、バスの三〇代の運転手さんと話ができたことです。沖縄では仕事がないのでバスの運転手ができるだけでもありがたいとのことでした。基地について辺野古について聞いてみました。特に意見はないというのです。生まれた時から基地が存在していて当たり前の光景なので、ということでした。

 この点は、琉球大学の学生の感想文にもありました。基地の存在が当たり前だし、困っている人もいるけど、利益を得ている人もいるのだからいいじゃないかというのです。

 基地の存在、日米同盟の適否、戦争、平和問題の根底を問うのではなく、すでにあるものは仕方がない、それを前提に考えるしかない。「現実」を見れば基地反対、基地をなくすなど無理で、仕方がない、しょうがない、それが現実主義だということでしょうか。

 既成の体制、枠組み、きまりの中で、必死に努力する、偏差値に縛られ疑問は感じないというより感じてはならない、と教え込まれている。自分の生き方を追求し、必要なら枠組み偏差値体制をぶち壊し、別の世界を作る。そうは考えない、考えられなくさせられている。

 そのことに危機感を抱いています。

 辺野古から帰って、午後六時半から、おきなわ住民自治研究所設立準備会主催の第1回「おきなわ平和・環境・人権と自治の教室」で記念講演をしました。沖縄の貧困が主テーマですがもちろん平和、基地問題が根底です。

 私は、沖縄独立論についても話しましたが、お二人から反応がありました。40代の女性からは、賛成だ、他方、70代の方からは、独立論なんてけしからん、とおしかりを受けました。

 沖縄が本土復帰したのは1972年のことでした。「島ぐるみ闘争」はじめ、激しく、必死の運動を支えてきた人々にとっては悲願の達成でしたから、独立論は、自らの運動、存在を否定されることになるのでしょうか。

 お気持ちは、よくわかりますが、平和主義、国民主権、基本的人権の保障を三本柱にした平和憲法のもとに復帰するはずではなかったのか。しかし、憲法改悪が日程に上っている今の日本にとどまっている必要があるのでしょうか。世界中で、民族とは、国とは何かが問われています。相変わらず、安保、基地負担を沖縄の人々に強い続ける、沖縄知事選等何度も示されている沖縄の多くの人々の願いを、自治を否定し、拒絶し、アメリカに追随している、そんな日本国にとどまる必要があるのでしょうか。

 確かに、憲法改悪を阻止し、まともな福祉国家建設の道をこの国に歩ませるのも一つの道ですが、沖縄の進むべき一つの選択肢として「こんな日本」と袂を分かつ、我が道を行くことを日本政府に突き付けるのも一考ではないでしょうか。困難と解決すべき課題は多いのですが、今こそ、冷静にかつ客観的に議論することが必要だと思います。

写真⑥ 元コザ市長・大山朝常さんの著書「沖縄独立宣言」

 元コザ市長であった、大山朝常さんは、1994年に起きた沖縄と日本を揺るがせた少女暴行事件の後、『沖縄独立宣言』(写真⑥ 現代書林1996年)を、沖縄(ウチナーンチュ)そして本土(ヤマトンチュ)の、とりわけ若い世代の人々への「遺書」として発表しました。

 96歳の大山さんは、沖縄の歴史の荒波の中で、「こんなヤマトは、私達沖縄人の祖国ではない」という痛切な思いを胸の奥深く沈静させてきたのですが、「未来につながるもの―それはウチナーンチュが本来のウチナーンチュらしく生きていける沖縄、『ウチナー世』を取り戻すことです。それは、まぎれもなく独立国家・沖縄の再現です。」と訴えたのです。

 琉球王国・沖縄の歴史と現実態を学び、憲法の歴史観、国際的、人類的視点を貫き、恐怖と欠乏(すなわち戦争・テロと飢餓・貧困)から免れ自由に生きる権利、すなわち平和的生存権を構築していくことが大事だと痛感した旅でした。琉球王国に学ぶべきは、軍事力ではなく、政治力・外交力こそが未来を拓くということでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 非核の政府を求める石川の会は、会報「非核・いしかわ」第223号(2017年2月20日付)を発行しました。サイドメニューの会報「非核・いしかわ」、「絵手紙」も最新情報を追加しました。

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