会報「非核・いしかわ」150号から200号までの「合本」を作成した際に、当時のリソグラフ印刷による文字や写真の不鮮明さが懸念されました。
特に152号から156号まで連載した『対談 狂気の時代-再びそれを繰り返さないために』が、5回の連載記事で読みにくかったため、ホームページに再掲することにしました。
「戦争をする国づくり」をめざす安倍政権による戦争法制の動きに抗するため、『対談 狂気の時代-再びそれを繰り返さないために』が多くの方に読み継がれることを期待しています。
対 談 狂気の時代-- 再びそれを繰り返さないために
開 催 金沢市黒田町 れとろぎゃらりぃ柳心庵にて(2010年6月7日)
出席者 莇 昭三:城北病院名誉院長
一塚 保:れとろぎゃらりぃ柳心庵 代表
司会者 永山孝一:金沢建築とまちづくり研究所会長
永山 莇先生はいしかわ自治研のニュースを毎号熟読してくださっているとのことですが、そのなかで一塚さんが書かれた第二次世界大戦時のドイツについての話に特に興味をひかれ、是非ともお話をしてみたいとのことで、今日の対談が実現しました。
莇 記事を読んだとき、20世紀の日本とドイツのファシズムの起こり方についての考え方が、加藤周一の発想とそっくりだと思いました。石川県にもこうした考え方をされる方がいるのだと感心しました。
一塚 第一次~第二次大戦前後のドイツ現代史、特にナチスドイツの戦争犯罪に関心を持つようになったのは、学生時代に著名な心理学者フランクル博士の「夜と霧」を読んでからです。自らナチスの迫害を受け、絶滅収容所でかろうじて生きのびた人ですから。彼の心理分析には体験者ならではの鬼気迫る説得力があります。
莇 日本医学会の第28回総会が明年4月にあって、そのときに問題を提起しようと今準備をしているのですが、メインのシンポジウムで第二次世界大戦後の「戦争と医療についての反省」の問題に関して、日本とドイツの医学界の比較検討を取り上げることになりました。
ドイツ医学会はニュルンベルク裁判を受けて、戦争責任について真摯に自己批判をしています。それに比べると日本の医学界は自己批判していない。ドイツも必ずしもストレートにナチを批判しているのではなく、動揺している面もありますが。
一塚 かなり複雑な要素がありますね。ヒトラーは1933年に政権掌握、1945年には自殺したので、その政権はわずか12年間だけでした。その間にすさまじい政治軍事パワーを集中して、あのような物凄いことを次々とやってのけたわけです。だから、ドイツ自身も周辺の国々もいまだに、その悪魔的な所業にトラウマを持ち続けているといえます。
日本も同様、今でこそ「軟弱」な国ですが、明治以降の断続的に続いた日本のすさまじい対外軍事膨張が周辺諸国にとってはいまだにトラウマになっているようです。
「加害者」の日独両国民自身はそういう歴史認識は希薄になりがちですが、「被害者」の周辺諸国には今なお潜在的にせよ、恐怖感や警戒心は根強く残っているようです。たとえば、ポーランドは独ソ両国の侵攻・分割、カチンの森の虐殺やアウシュビッツなど多くの血なまぐさい歴史の舞台となり、大国の非情さ、酷薄さ、裏切りをいやというほど味わってきました。
ところで、アウシュビッツ収容所といえば、ヨゼフ・メンゲレというナチス親衛隊将校でアウシュビッツの主任医官がユダヤ人をモルモットのように扱い、残虐でちゃくちゃな人体実験を繰り返したことでも知られています。絶滅収容所の親衛隊医官というのは病気を診るというよりも、到着したユダヤ人の中からガス室送りにする者たちの選抜、またそれらガス殺したユダヤ人の死体を焼く作業人員の選抜もやっていました。医師というより組織的な大量殺人(ジェノサイド)の執行者といえます。ナチスの蛮行はアウシュビッツのほかにもさまざまな形態を伴い、無数の事例があります。たとえば、独ソ戦初期で一度に何十万というソ連軍兵士が捕虜となり、ナチスは独特の人種観からソ連兵には捕虜待遇を規定した国際協定を適用しませんでした。非情な虐待行為が日常的、継続的且つ大規模に行われ、多数のソ連兵捕虜は寒さ、飢餓、疫病、強制労働、見せしめ処刑などで虫けらのようにバタバタ斃れてゆきました。最終的に生き残った者は10分の1にも満たなかったでしょう。ですから、ナチスの蛮行は決して、ユダヤ人の強制収容所だけではなかったのです。
ナチスの狂気の人種観によると、ユダヤ人が最底辺でその上に黒人、スラブ系、ラテン系、北欧系と、「人種の優劣」がピラミッド状に規定されており、「最優秀のアーリア人」つまりドイツ民族が唯一の支配民族とされていました。それゆえに、上記のそれぞれの範疇の人々の取り扱いは「人種の優劣」度に応じて、それなりの差がありました。
莇 あなたの文書のなかで、日本は「上からのファシズム」と書かれています。ドイツは「下からのファシズム」。ここのところが印象に残りましたが。
一塚 ヒトラーはオーストリアの下層中産階級の出身、第一次大戦に従軍した一介の伍長から、後に激烈な大衆運動を展開して全ドイツの支配者になりました。
それとは対照に、日本では軍部、上層支配階級が独占資本と結びつき、絶対天皇制を利用して上から国民に網をかぶせる形でファシズムを形成したと私は捉えています。
ドイツではワイマール共和国時代にナチに類似した群小のさまざまな国粋主義政党があったのですが、ヒトラーがそれらを収斂してナチス党の大衆運動一本に組み替えていったのです。
莇 ヒットラーはアーリア民族が唯一の民族だと叫んで1932年に選挙で政権をにぎってゆく、つまり下からのファシズムですが、日本の場合は時の政権そのものがファシズム化して国民全体を巻き込んでいった上からのファシズム、その両国の違いが、日本とドイツの国民性の違いとどうかかわっているのですか。
一塚 日本では15年戦争の一連の戦争事実を全て一纏めにして、「当時は天皇陛下の命令は絶対だったから、個人としてはどうにも仕方がなかった」という言い分が共通認識になっているようです。戦争を経験した大方の人々からすれば、これは間違いなく事実であったのです。
しかしドイツではオーストリアを併合した時のヒトラーの有名な街頭パレード写真に見られるように、かなり多くの国民がナチスを熱狂的に支持した時期がありました。これはナチスが巧妙なプロパガンダを駆使して国民を集団催眠にかけたことにもよるのですが、それだけでは到底説明がつきません。
当時、ワイマール共和国下で第一次大戦敗北による莫大な弁償金を科せられ、また世界同時不況による天文学的インフレと重なってドイツ人の生活は疲弊し、失業者が街に溢れていました。
ナチスはこれらを巧妙に政治的に利用し、すべての悪の根源としてユダヤ人をスケープゴートに仕立てるとともに、旧戦勝国への報復感情を煽り、一方ではアウトバーンの建設などの公共事業で失業者を一掃しました。社会底辺~中産階級の生活安定化で大衆を取り込み、急激な再軍備で軍部や独占資本を喜ばせ、「ドイツ民族の誇りと自信を取り戻す」プロパガンダは、ヒトラーの天才的な演出により、人々の心を虜にしてしまったのです。
一方、日本でも狂信的な国粋主義に取り憑かれた人々は少なからずいたのですが、彼らの組織運動についてはナチス党のように社会下部から自立的に盛り上ってきた場合は、絶対主義的な支配階級の象徴である「官」からは警戒され、時には排除され、つまり「官」を無視しての運動は成り立たなかったと思います。当時流行の「ハイカラな」ナチス運動の影響で「草の根の大衆運動」をいくら装っていても、常時「官」からの監視と誘導があったと私は見ています。
日本では昭和以前の設立のものも含めて、さまざまな官製ファッショ組織がありましたが、常に「官」にコントロールされ、監視され、上からの命令で動くが、下層の構成員の庶民は受動的であった「大衆運動組織」がほとんどであったと思います。これが日本的ファッショ運動の特徴ではなかったでしょうか。
莇 そうするとあなたの考え方では、日本のファシズムはどういうものになりますか。
一塚 男なら軍隊で仕込まれて一丁前、という明治時代からの素朴な愛国心、それとなにせ国の命令に逆らうことが絶対不可能な時代でしたからね。
いったん赤紙が来れば、大方は兵隊に行かなければならぬと覚悟したのでしょうが、一方たとえば醤油を飲んでまで徴兵忌避したという話があるように、いやいや行った人も多かったと思います。人に言えなかっただけでね。勇ましい当局の軍国主義キャンペーンの割には、現実は戦場で国のために身を投げ出したいと本心から願っていた人はそれほど多くはなかったのではないでしょうか、建前・表向きはともかく。頭がコチコチの狂信的な職業軍人は別として。戦争に行かされた大半の日本人は、そのへんの長屋の八っぁん、熊さんのように、戦争よりも妻子の安否を気遣う普通の庶民だったと思いますよ。
そのへんが、ナチスドイツのように幼少時からドイツ少年団、ドイツ少女団、ヒトラー・ユーゲント、国家労働奉仕団等々と、兵隊になるずっと以前から軍事訓練を徹底的に仕込まれ、ナチス思想も叩き込まれた青年たちとの落差があると思います。
莇 そうした両国のファシズムの違いが、戦後の戦争責任に対する意識の違いにどう反映していますか。
一塚 ドイツではそういう苛酷な歴史を引き摺ってきたが故に、戦争を直接経験した国民はそれらの過去に非常に恥じ入っていると見ています。ヒトラー一人が当初から絶大な権力を握っていたわけではありません。
ワイマール共和国下で軍備を制限され不満をかこっていたドイツ将校団、そして軍部にどんどん兵器を売りつけたいクルップ等の独占資本は、当初はヒトラーを利用し、自分たちの権益実現のための便利な傭兵程度に考えていたふしがあります。これが大誤算で、やがて国自体がヒトラー一派に完全に乗っ取られ、その後のドイツは狂ったように世界戦争に突っ走ってしまったわけです。
こうした経緯のゆえに、ドイツの大方の国民は敗戦後、自分たちはむしろ犠牲者で強制的に戦争に狩り出されたのであり、戦ったのも国を守るためだった、ヒトラーナチス党とは全然違うのだ、という自己弁護を共有しました。また、そう思いこみ、そう言わないことには、自らの良心の重圧に押しつぶされてしまったことでしょう。そういう意味では、彼らドイツ一般大衆も、日本人と同じく戦争の気の毒な犠牲者であったという事実には変わらないものでしょう。
ドイツでは、このように幼少からたたき上げられた普通の青年がユダヤ人排斥や占領地民間人への血なまぐさい虐待に関与したことは珍しくはありません。親衛隊だけの専権事項であった強制収容所関係を除いては、なにも親衛隊員だけが蛮行を働いたわけではないのです。
逆に言えば、その悔恨、民族としての良心の呵責が戦後の明確な自己批判、謝罪につながっていることは間違いありません。
この点に日独間に温度差があるように思えてなりません。これには「終わったことはすべて過去としてきれいに流し、清める」神道の民族と、自らが関わった深い罪と良心との葛藤から簡単には逃れられないキリスト教徒との違いであるのかもしれません。
戦後、アメリカやソ連などが廃墟の山となったドイツを占領したなかで、ドイツ人はさらに東西に引き裂かれて生き残らねばならなかったわけです。そこでの彼らの精神状況は日本人の想像を絶するほど苦悩に満ちたものだったことでしょう。
日本の終戦処理では、大ざっぱに言えば、マッカーサー進駐軍がやって来た途端に「戦争はもう終わりましたので、ハイこれから新しい民主主義日本ですよ、みんな万歳!」、というような具合ではなかったでしょうか。
最近、特に日本のTVメディアで感じることは、昭和前期~終戦まで日本が犯した血なまぐさい歴史については、不思議なことにその部分がスッポリ抜け落ちていて、まるで初めから存在していなかったような錯覚さえ覚えるほど、めったに触れられることがないのではないかと。
ドラマの設定でよくあるのは幕末期(「竜馬伝」)、そして文明開化と輝かしい国威発揚時代(「坂の上の雲」)。この辺までで、あとはいっぺんに現代まで飛んでしまっているような気がします。
まるで汚いものは見るのも嫌、といったように。今流行りのCMフレーズでいう「無かったことに~♪..」みたいな..。そうであれば、つくづく悲しい民族であると思います。
自ら作ってしまった歴史がいかに酷くとも、その「負の遺産」から目をそらさず直視し、内省を怠らない国の方が世界では尊敬されるのではないでしょうか。
ドイツでは、以上に述べた経緯により、戦争に関わった世代の加害者意識、悔恨、恥辱、良心の呵責などは個人レベルでは日本人同世代よりはるかに強いというのが私の印象です。(あくまで一般論であり、個々の心の有り様はまったく別の話ですが)ただ、深刻な戦争犯罪を「若気のいたり」で済まそうとするのは、戦争の狂気による精神の崩壊からの自己防衛本能でもあり、このこと自体は今なお戦争をしている各国の人々に共通する現象ではあります。
莇 ドイツが被害を与えた人々、他民族にたいする国家賠償についてはどうなのですか。
一塚 個人レベルの反省とは別に、国としてのドイツも日本と同様、国家賠償については抵抗したのですが、奇妙なことに最も酷い迫害を受けたユダヤ人に対しては特別で、連邦政府は個人補償まで行いました。この点は日本と異なる点です。ただ、これについては、ユダヤ系アメリカ人による米国を背景とした政治圧力や、アメリカが擁護してきたイスラエルからの強い圧力との関係は明瞭ではないでしょうか。 そして、実はこのあたりが以下に述べるドイツ人自身による戦争総括と旧戦勝国各国とのものとで微妙に齟齬する部分であり、戦争責任の範囲についての最もセンシティブな部分でもありましょう。
しかしながら、ニュルンベルク裁判を経て冷戦に向かう頃は、日本もドイツも政治状況の変化が始まりました。戦犯については処分が次第に軽くなってゆきます。それと、例えば戦時科学者のように軍事的な応用技術を持つ者や、一部の諜報機関の連中は戦争犯罪責任を追及されず、そのまま連邦政府や旧敵国が雇ったりしています。いわゆる司法取引というやつです。これらは国際政治というものがいかに不条理で破廉恥であるかを示すものでしょう。
莇 ニュールンベルグの裁判判決に従って、戦争責任について法律で明文化しているわけでしょう。
一塚 特別法で立法されているものではなく、あくまで刑法上の謀殺罪という規定での追求ということになっているようです。実体上か形式上かはあいまいなところがありますが、一応は親衛隊関係の戦争犯罪だけはいまだに許されないものとされています。逃亡中の重要な戦犯には時効が停止されています。
その一方、国防軍(一般の陸海空軍)はヒトラーに命令され、仕方なく従っただけという見解が支配的です。現実は、彼らも個別的な戦争犯罪には深く関わっていたので、全く「シロ」という見解は明らかに事実に反します。ただ、国防軍将校の一部が戦争末期に幾度かヒトラーの暗殺を試みていたこともあって、戦犯以外の国防軍関係者はむしろ愛国者として位置づけられており、一部の軍人は英雄視さえされています。日本でいえば山本五十六海軍元帥みたいなものでしょうか。そして冷戦期あたりからは起訴された親衛隊員への判決さえどんどん甘くなっていきました。
莇 単純に比較はできないと思いますが、複雑ですね。現在の一般的なドイツ人はどのように考えているのでしょう。
一塚 私の知っている年配のドイツ人たちはたしかに罪の意識を持っています。戦争の話は自分からはしたがりません。よくよく聞いてみると昔ヒトラー・ユーゲントだったとかナチス突撃隊員だったとか、ポロっと漏らすことはありますが。
永山 私の母方の祖父は足に貫通銃創があり、そこにわらしべを通して掃除していたのを思いだします。それを私に見せながら、旅順の二百三高地で、日露戦争の時に戦功をあげたことを誇りたがっていました。私の父の場合は、第9師団で南京や上海に行っていたのですが、たまたま同僚が腹痛を起こして介抱しなくてはならなかったので、「その日は行かなかった」とだけ語っていました。父は戦果を誇るようなことは言わなかったのです。祖父の日露戦争の話と、父の第二次大戦のときの話の違いが印象に残っています。父と同じ年代でもいろいろな方がいて、大陸まで攻め込んで戦果をあげたと自慢する人もいます。同じ戦争を経験してもそうです。
一塚 ドイツでも旧軍の将校で位の高い鉄十字勲章を受けた人などは戦友クラブを作って戦争の自慢話をしたりすることはあるようです。日本の戦友会みたいなものでね。
永山 私の家内は満州の鞍山で生まれたのですが、生後3カ月にならないときに父親が徴兵され、そのままシベリアで行方不明になりました。死亡通知は来たけれども墓がどこにあるかもわからない。私の従兄がソ連に旅行した時に当地の石を拾ってきてもらって、それをお墓に入れてあるような状態です。満州から母親に抱えられて日本までたどり着いたというような話。その一方で、満州では許されるべきでないような戦争犯罪が行われていたということを莇先生の著書『戦争と医療―医師たちの15年戦争―』(かもがわ出版2000年9月)などで読むと、本当に複雑な思いがします。
一塚 日本軍は米英兵捕虜には捕虜の待遇に関する国際協定の適用をさすがに無視できなかった。でも日露戦争のときには捕虜の待遇にはもっと気を遣っていた。それは、外国の目が日本に注がれていたからです。第一次大戦でドイツと戦った時も同様でした。
それとは対照的に、アジアに出兵した際の、アジアの人々に対する振る舞いはひどいものでした。捕まえたら殺すということは特別なことではなかった。そのような当時の写真も多く残っています。
ドイツ軍のソ連兵捕虜の取り扱いと似たりよったりということでしょう。英米兵捕虜だけは国際赤十字の目があるので、それなりに気を使ったようです。彼らにかなり虐待をした場合も秘密裡に行われました。
たとえば米軍爆撃機が撃墜され乗員がパラシュートで降りてきたところを竹やりで突き殺したとか、九大医学部で行われた米兵捕虜生体解剖事件など。それでも当時の日本側からすれば、日本国内で収容された大半の英米系兵士には捕虜としての最低の待遇を与えてやっていると思っていました。しかしながら、これも米英捕虜側からすれば国際協定の基準をはるかに下回り、つまり捕虜虐待行為であると受け止めたのです。
莇 「九大アメリカ兵人体実験」のことですが、これは極東軍事裁判B級裁判で処理されたのですが、問題は「捕虜虐待」の罪で死刑判決がでましたが、生体実験という医療倫理での裁判は全然なかったという問題が重要なのです。このことと直接関係しませんが、戦争の倫理という問題で、戦友会というのがありますが、ほとんど加害者意識がないのですね。
一塚 ドイツでは現在ハーケンクロイツを公にさらすと警察沙汰になります。欧米ではネオナチはとにかく押さえこまなければ、という各国共通の認識があります。どの程度厳しいかは各国で程度の差はありますが。
永山 私の知人が昨年、新建築家技術者集団の新建学校in石川で『フランク・ロイド・ライトの住宅デザイン』の講演をしたあと、金沢市内を案内しているときに、北國銀行武蔵ヶ辻支店の建物を見た時の感想があります。この建物は、その後、新高輪プリンスホテルなどでも知られる村野藤吾の作品ですが、この村野の作品にはヒトラー建築の様式が採用されたりして、ドイツの芸術文化を日本に導入するという動きが当時の日本にあったとのことです。
一塚 昭和前期はヒトラーのプロパガンダの大成功もあって、当時のドイツの文化を積極的に取り入れようという気運が各界に見られました。ヒトラーも若いときは建築家志望でしたしね。
永山 明治維新以後のいわゆる西欧化というか「脱亜入欧」の洋風建築とは別のものがあるんだと思いました。
一塚 戦前戦中の日本の官製の青少年組織なども、ナチスのシステムをあきれるほど真似ています。特高や憲兵隊の捜査・尋問・諜報・防諜関係の方法論についてもドイツ治安機関からの影響はあったことでしょう。
莇 日本とドイツのファシズムの起こり方の違いからいろいろはなしあったわけですが、私の直接の今の問題意識は、ドイツ医学界が日本の医学界と違って戦争中の医師・医学者のおこなった「人体実験などの医学犯罪」を真摯に反省してきたこと、一方日本の医学界がそれらの行為を「隠蔽」し、意識的に「忘却」してきたこと、の比較検討を考えてみたいと思うことです。勿論ドイツ医学界でもこの問題ではこの65年間は紆余曲折してきたらしいのですが、その紆余曲折について、もっと話し合いたいと思います。
* 「ヒトラーは1933年に政権掌握、その政権はわずか12年だけでした」。一方、バブルがハジケてから20年。国とまちの明日を選択する岐路に差しかかっているわが日本。――このような時期にこの対談は行われました。
話題の尽きない対談でしたが所定の時間が参りました。本日はここで終わらせて頂きました。機会があれば後編も期待されるところです。
なお、編集にあたりまして武田公子金沢大学教授にテープ起こしをお願いし、莇先生、一塚さんにはご多用中、厳密な校正を頂き御礼申し上げます。(永山孝一)
- 写真1. 1939年頃 ナチス党のあるイベントにおいて上気した顔で街中を行進する少年たち。ドイツ少年団員、ヒトラー・ユーゲント隊員たちである。 彼らの親たちも息子の「晴れ姿」を路傍で得意気に見ていたことだろう。
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- 写真2. 1941年6月 ドイツ軍の大部隊は電撃的にソ連領に侵攻した。捕らえられ、不安な顔のソ連兵捕虜。2名の女性兵士も混じっている。1941年10月モスクワ攻防戦のさ中、「パルチザン容疑者」が潜んでいるとして、ドイツ陸軍の対パルチザン部隊がモスクワ郊外のある村を急襲、「容疑者」の男たちを連行し、村を焼き払った。
● 写真3~4. 不意打ちを喰らったソ連軍は防戦もままならず、緒戦だけで数十万人という大量の捕虜を出してしまった。
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- 写真5. 1942年頃、東部戦線にて ある東欧(たぶんチェコスロバキア)の町で、「パルチザン容疑者」の市民を連行し、壁を背に立たせている。先頭の一人はもう目隠しをされている。彼らの運命については述べるまでもないであろう。