2020年 10月

「そこまでやるか、ここまできたか、どこまでやるか」 

日本学術会議任命拒否に抗議する

代表世話人  五十嵐正博

 立命館大学の松宮孝明教授は、日本学術会議の任命拒否についての新聞インタビューに、「とんでもないところに手を出してきたなこの政権は」と答えたということです(京都新聞)。この暴挙の報を聞いたとき、「そこまでやるか、ここまできたか」が最初の感想でした。そして「どこまでやるか」に思いがいたり、すぐに合点がいきました。

「目的のためには手段を選ばず」

 自民党の結党以来の一貫した「改憲」願望からして(政権により濃淡はあっても)、「そこまでやるか、ここまできたか」は当然の流れ、「歴史の反省」をせず、むしろ「復古主義」への回帰を夢想しつつ、「政財界による権力維持の執念」。日本国憲法を「改正」するために、したたたかに、粛々と「政権にとってのジャマモノ」を一つずつ、一人ずつ消す戦略。もちろん、一番のジャマモノは「日本国憲法」。当該行為が「合憲か否か」「違法か否か」などに関心はなく、「目的のためには手段を選ばず」という強権政治。

厚顔無恥こそ権力維持の秘訣

 今回の件で、岡田正則教授(その他多くの人)が指摘しているように、菅首相が「推薦段階の105人の名簿を『見ていない』」ということは、学術会議からの推薦リストに基づかずに任命したということです。これは明らかに、日本学術会議法の『推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する』という規定に反する行為」です。政府は「総合的、俯瞰的な」意味について、「丁寧な説明」など、そもそもできない相談です。「見ずに俯瞰する離れ業」(中野晃一さん)。自民党にとって「日本学術会議」は「ジャマモノ」。どこまで「用意周到」なのか、あるいは時の政権が「場当たり的に」また「思い付きで」実行するのかは、それぞれの事例について検証が必要です。しかし、今回の件については、すでに安倍政権時代から「目の敵」にされていたことが明らかになっています。まさに「虎視眈々と狙い撃ち」されたとみるべきでしょう。

 前川喜平元文科省事務次官が実際に経験されたことを語っています。「文化審議会文化功労者選考分科会」委員の選任について、杉田官房副長官から、10人の候補者のうち2名が好ましからざる人物であり任命するなと言われた、安倍政権を批判するようなことをメディアで発言したことが理由であったと。闇の中で、陰湿かつ執拗にうごめく権力行使、空恐ろしい話です。よくも「自由、民主主義、法の支配、基本的人権の尊重(市場経済が加えられることも)」という、ありもしない「共通の価値観」などといえたものです。いや、この厚顔無恥こそ権力維持の秘訣なのでしょう。

日本国憲法の壁

 思えば、80年代後半の中曽根政権による労働組合つぶし、2003年、第一次安倍政権による「教育基本法」改悪、第二次安倍内閣による特定秘密保護法(2013年)、平和安全法制(2015年)、共謀罪(2017年)へと続く「違憲」諸法の改悪・制定。自衛隊法改正は数知れず。日本国憲法は満身創痍にさらされてきました。それでも、日本国憲法の壁があるがゆえに、少なくとも、歴代政権は、当該行為に「理由にならない理由」を述べなければならず、「好き勝手放題」を許すことはありませんでした。

自民党の執念

 自民党は、この「歯止め」「壁」を取り払うことに執念を燃やしてきました。菅首相が政策の根本と考える「自助、共助、公助」、なんと正直な首相でしょうか。「丁寧な説明」がなくても即座に理解可能、安倍政治を継承して、「自民党新憲法草案(以下、新草案)」(2005年10月)、「改正草案」(2012年4月)に沿った憲法「改正」を目指す宣言そのものだからです。要は、国家による個人、家族への介入、国家支配の拡大。憲法は「権力をしばるもの」という理念とは真逆の発想であり、「憲法でない憲法」作りを推し進めること。「自助」とは、「個人」ではなく、「人」は「公益及び公の秩序」に反しない限りの「自由」を持つにすぎず、「国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。」(改定草案12条)ことになります。

 「新草案」は、「前文」で「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」とし、「改正草案」では「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」となりました。「復古主義の中核」ともいうべき「国家への忠誠義務」を義務付けようとするものです。「改正草案」は「国防軍」の創設をうたい、「徴兵制」に道を開くことが危惧されます(「新草案」では「自衛軍」でした)。

 「共助」とは、「家族は互いに助け合わなければならない」こと。「共助の義務」です。「公助」について、「草案」は現行憲法二五条(生存権)に何も加えていません。最近の「黒い雨訴訟」を見るまでもなく、国は、いざとなると「公助」どころか、「知らん顔」をするか「逃げる」かして、一切責任を負おうとはしません。しかし、権力は、いつも見えない影におびえているのでしょうか。「国民に刃を向ける=強権的に弾圧する」「緊急事態条項」を憲法に盛り込もうというのです。これが菅首相が思い描く「自助・共助・公助」の意味です。

市民の声が届かない社会に未来なし

 今回の学術会議問題は、任命拒否を撤回させなければなりません。「アリの一穴 天下の破れ」ということわざがあります。政権が「総合的・俯瞰的判断」で何事をも決められるとすれば、憲法も法律も無用となってしまう、それは、立憲主義の破壊、独裁政治です。

 坂本龍一さんは、日本学術会議への人事介入に抗議して「声を上げること、上げ続けること。あきらめないで、がっかりしないで根気よく。社会を変えるには、結局それしかないのだと思います。」と発言しました。同感です。「あきらめないで、がっかりしないで根気よく」安倍・菅政治なるものを引きずり下ろすために声を上げ続けましょう。「忖度」と「萎縮」が蔓延する社会、なにより「市民の声が届かない」社会に未来はありえません。市民の手に「日本国憲法」を取り戻さなければなりません。

【追記】岡田正則さんは、かつて金沢大学での同僚であり、井上英夫さんとともに日韓の共同研究に加わりました。『日韓の相互理解と戦後補償』(日本評論社、2002年)

【参考】『菜の花の沖縄日記』出版元「ヘウレーカ」から新刊、福島祐子著『ヒロインの聖書ものがたりーキリスト教は女性をどう語ってきたか』が刊行されました。本稿を書きながら、つい「プロローグ」を読み始めた途端に、「他者を蹂躙することで己の権力を誇示したくなる」との一文に出くわしました。文脈は、本稿とは全く違いますが、「権力者は」を主語にすれば全く納得、ここに引用します。ご興味のある方はぜひお手に取ってください。お勧めです。

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